2015年2月9日月曜日

報道の自由

7日、シリアに渡航計画していた日本人フリーカメラマン、杉本祐一さんに、
旅券法に基づき、旅券の返納を命じ、受領したこと伝えられた。

この日本人カメラマンは、命令には従ったものの、「報道の自由」はどうなる、と困惑しているようだ。

フランスのテロ事件の「表現の自由」もそうだが、この場合の「報道の自由」はどうなんだろう?

まさに「公共の福祉」によって制限されて当然だと思う。

なぜそこで「報道の自由」なのか、そこがまずわからない。

幕末の「脱藩」ではないが、「国籍離脱」をしてから行け、とそう思う。

そこに日本人がいくことで、テロ組織の利益になることがわからないのだろうか。

「報道の自由」を言う前にまず、そのことを考えるべきだ。

「表現の自由」や「報道の自由」を言う人には、「正義に殉じる」という意味で、「原理主義」に似たものを感じる。

ある意味で、イスラム国と同類なのではないか。

だから、戦争も起こるのだと思う。

もちろん、なにもかにも、「なすがまま」だから、ああいう「テロ集団」を野放しにする、という考えもある。

「報道」や「表現」には、敵味方がない、という理想はある。

しかし、現実に敵味方になっているものを、そうでない、というのは、無理がある。

「報道の自由」や「表現の自由」に殉じた人たちは、「犬死に」ではないと、だれがいいきれるのだろうか。

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